昭和四十五年六月二十六日 朝の御理解


御理解 第三十一節「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」


  信心させて頂く者は、全ての事に感謝の心を持てというのですねえ。それこそ木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を云う、そういう心持ちが大切。ところがなかなか怠りがちであり、お礼の足りない事お詫びの足りない事、本当にそれに気付かせて頂くのですけれど、私共はせめてそのポイントになるところ、いうならば、それこそお礼を欠いではならない事、いわゆる木の切り株くらいの事ではない、大変なおかげを受けておる事に対してだけ位、心からお礼の申し上げれれる信心を頂きたい。そういう事にまでもうかつになっておる。
  私、今日、御神前に出らして頂いて、頂いたんですけれどもね、昔、農家に参りますとね『ねこだ』というわらで作るむしろですが、それと『わらじ』を作っておるところを頂くのです。ですからこれはどういう事かまだ見当がつかんのですけれども、その事を頂いて三十一節を頂いた訳です。
  私共がやはり願いを大きく持たなければならん。と同時に目を荒くしてはいけない。それこそ、ねこだを編むように縄の中にわらを通してひとつづつ叩いてがっちりしたむしろを編み上げて行くようにです、いわば大きく願って目細うと言う風に・・・わらじというのは、足にはくのですからやっぱり足元の事。信心を只、目細うだけではいかん、やはりそれが大きな正当なまともな願い、そういう願いに心が向けられる、それに向かって一歩一歩近づいていくという事は、やは
り目細い信心からでなければ生まれない。
  最近、若先生が東京から帰って以来、朝の御祈念がまるでもう、われ鐘をうち叩いたような何もかにもつぶしてしまうような声でやるもんですから、一部の人はそれについていきよるけれども、他の人はかえってポカンとしてついていけんのですよ。とにかくもう、われ鐘を叩くような御祈念、リズムというものが生まれてこない。ご本人はもう一生懸命のつもりらしいけれども・・・・・
  例えばこれは、仏様でも何様でもリズムというのは大事に致しますよ。お寺さんあたりで木魚を叩いたり、鐘を叩いたり、もうそれはあの木魚の音色にね、おおじて数珠をつまぐっていくというこれは素晴らしい信心の情操が、そこに出てくるんですねえ。そういう事の為に、ああいう鳴り物入りがあるのじゃないでしょうかね。これは何宗にでもあります。ですから、お道ではそれを御祈念の時に大祓いとか【 】しますが、とにかく皆さんがつけていけれる、それでいて一生懸命上げられるような雰囲気を作らなければいけないなと思うのです。一生懸命だけではいけない。私共の日常生活でもそうです。やはり、ひとつのリズムがなからなければね、今日私が云う、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を云う心持ちが生まれてこない。どうでもひとつリズムのある御祈念、又はリズムのある信心生活。
 昨日は婦人会でしたが、吉井の波多野さんが発表しておられました。婦人会に時間に遅れんようにと思うて出かけられた。バスの時間がちょっとあるからと思うて片づけ物をされて、バス停に来た時にはもうバスは出た後であった。遅れたくはないけれども、もうバスは行った後である。相すまんと思いお詫びさせて頂いておりましたら、ふっと目の前で車が止まった。「私は田主丸へ行きよるが乗りなさらんですか」と云うて下さるので「それじゃ乗せて下さい」と「何処までおい出られるのですか」「合楽の金光様へ参ります」「ああ合楽の金光様ですか」
というところから、金光様のお話になり田主丸まで来るまでにいろいろ信心の話を「もう一時そんな話を聞きたいですね」と自動車の運転される方が云われる位に、わずかな時間でも信心の話を一生懸命させて頂いて、降りる時に「今度三十日に大祓い式がございます。それであなたの車のナンバーを教えて下さい」と云うてナンバーまで控えてきたと云う訳なんです。そして田主丸で降りさせて頂きましたら乗り遅れたバスがちゃんと待っておるように、そこに止まっておるじゃありませんか、有り難いと思うて乗せてもろうておかげでこちらに、時間には到着させて頂いたという、そのほんのわずかの間の、いわゆる信心体験をお話しておられました。
  それから、森部の高山さんが発表しておられました。それは日々がですね、明日がどうのこうのと決められていない。いわゆる神様の幕開けと云うかその日の幕開けが引かれた、そこに表れてくる舞台の上で私は今日どう踊らせて頂くかという事をいつも心にかけております、とこう云う。
 今日どういう事が起こってくるか分からん。神様が今日一日の幕を開けて下さる。
開けて下さるそこでは、もう自分がその舞台立っている。自分の踊り方、自分の演技ひとつで一日のお芝居というのが素晴らしい一日になったり、浅ましい一日になったり情けない一日になったりするのですから、この幕開けが大事だと云う話を、ここ二・三日の体験を通して発表しておられます。ですから、そういうですね神様の幕開けというか、今日一日、さあーというような気持ちでです、どう取り組ませて頂くかで一日が有り難いものになったり、いわゆる有り難くないものになったりするという訳なんです。
  だから、まず私は木の切り株に腰を下ろしても立つ時には、礼を云うような心持ちといったようなものは、もうそこから既に出来ておらなければならない。勿論、全てが感謝の対象にならないものはないのですから、どういう事があっても結果に於いては神様有り難うございますとか、相すみませんとかという、お礼とかお詫びの答えが出てくるような演技力というものをです、身につけていかなければならない。そこから波多野さんが発表しておられますように、ひとつのリズムというものが出てくる。お繰り合わせを頂かなければならん。そういうリズムのある生活、勿論、御飯を頂きながらレコードを聞くという事ではありませんけれどもね、天地が奏でて下さるところのリズムなのです。天地が自然に奏でて下さるその恩をです、妙音にするか妙音にしないか、それに乗るか乗らないか、自分の心をそこにいつも置いておかなければならない。
  本当に私共がそれこそ、目ごもういくなら木の切り株に腰を下ろしても全ての事にお礼を申させてもらわなければならない事ですけれども、あんまり目ごもういきよってです、肝心要の大きな事に私共はお礼を申し上げてないような事があるように思います。リズムに乗った日々と、そういう有り難い有り難いという一日でありたいのですが、その有り難い有り難いが只、目のこまいという事だけで
肝心要の大きなところへです、まあ例えて申しますとお食事を致します。もう本当にお総菜のひとつひとつに有り難いなあ、美味しいなあと感謝しながら頂いてそれをごちそうさまと云うてお礼を申し上げるという事も有り難い事ですけれども、そのどういうものでもが、有り難く美味しゅう頂けれる、健康のおかげを頂いておるという事。この事は、もっともっと大きなおかげなのですよねえ本当は。
生かされて生きておるとか、健康のおかげを頂いておる、何を食べても美味しいだから美味しいその事、美味しいものに対するお礼は目ごもう、いきよりますけれども、それを美味しゅう頂ける程しの健康のおかげを頂いておるという事にですね、うかつにしてお礼を申し上げる事を忘れます。そういう例えば感謝の心というのが根本になっての、私はお総菜ひとつひとつに対するお礼だという風に思いますねえ。
  昨夜の御理解に『捨ててかかれ』という事を頂きました。例えば、テレビなんかまたたびものなんか見たりしていますと、斬り合いを始めるという時には、まず三度笠をパーッと捨てるでしょう、次には着とるかっぱをパッと脱ぎ捨てるでしょう。あれが大事なんです。『捨ててかかる』。
  昨日、私は、ある方のお取次をさせて頂きました。そこの中心になるご主人は大変な高給取りです。財産もあります。それでいて、お百姓もしておられます。それに最近では、もう貸し家を建てられて借家もたくさん持っておられます。もう収入はいろいろたくさんあっておる訳です。それでもお婆ちゃんがなかなかやりてですから・・・信心も一家あげて熱心なんですねえ。けども、自分の食べる所の米だけは作らにゃと云う。今年のように雨の為、せっかく作った麦を腐らかすような結果になったらから、かえって親戚の方にもご迷惑をかける、他のに切り替えにゃといった意味のお届けをなさっておられる時にね、私が頂きますのが、昔、あわしまさんというのがあった。あわしまさんというのは、もういっぱい何かこう、かろうてねえ、お遍路さんの様な人が来よりましたよ。もう、いっぱいさげとるのを、まるっきりあわしまさんのごたると云いますよね。雑のうから水筒からうリュックをからう、もうとにかく私共が引き揚げて帰ってくる時のような状態、あげんとをここ辺であわしまさんのごたると云います。そのあわしまさんのごたる状態のところを頂くのですよ。もう本当に云うたら、中心のご主人給料だけで結構出来る。それに家賃はうんと上がってくる、ですからもうそげん出来もせんとに、もうそして麦でん何でん腐れたつを勿体なかと云うてから手でもんでからとりなさるそうですもん。それはもう、野菜でも何でも・・・・それは
働きに対する熱心さと云や、それまでですけれども、まあ云うなら惜しい訳です。云うなら我情我欲です。まるきり、あわしまさんのごたる願いというのをかろうてござるから、もういつも、だからそこにああせにゃならんこうせにゃならん、仕様が悪かと不足が出て来る訳です。だから本当云うたら、百姓くらいはもう人に任せて、したらいくらかすっきりなるだろうと、私共はそういうような生活をしてるような事はないだろうか。これは勿論ね、信心の徳を頂いて身についてくるものなら別ですよ。
  例えば、何々の社長さんも重役さんも肩書きをいっぱい持った人達があるでしょう、そういうのがね、どうでもあなたでなからな出来んからと云うてついてくるなら、これはひとつも持ち荷にはなりませんよ。力があって持つのですから、けれども手が廻らんようなものを持って苦しんでおるなんて、こんな馬鹿らしい話はない。だからひとつの事に集中出来ません。
  ですから、こういうのがね、捨ててかかったらどんなに素晴らしい働きが、より出来るだろうかと思いますね。夕べ頂く御理解もそういうような事でした。
  私共がひとつの願いを立てる、願いを持つ、只もういっぱい願う事ばっかり願うてからですね、一生懸命ひとつひとつあわしまさんのごとかろうてから、成就致しますようにといったような願いでは駄目。捨ててかからなければ、捨てて願う。まず三度笠をパーッと気前良く捨てるでしょうが、あれが必要なんです。
それを、本当云うたら我情我欲を捨てる、もっと本当云うたら命をかける、いわゆる捨て身なのです。もうこれに勝つ者はありません。助かりたいと思うて斬り合いよったら、助かりたいと云う方が負けます。だから本当に剣の道の得意な人はもう初めから、いわゆる捨て身の術ですねえ。これに勝つ者はありません。捨て身になったら怖いものはありません。これがしかし、いつもかつも捨て身といった事が出来る事はありません。身についてしまえば又別ですけれど・・・・・
  そこで、教祖様は我情我欲を離れてとおっしゃる、我情我欲を捨てて見て見よ、真の道がすぐ分かる、神様の御恩恵の中にある事がね、一目瞭然に分かる。我が身は神徳の中に生かされてあるという事が、一目瞭然に分かる。そこから私は、
木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を云う心持ちも生まれてくる、いやもうそう云わなければおられないです。一目瞭然に分かるから・・・・・肝心要の云うならば、例えば今、私が食事の事で例を申しましたが、ごちそうさまでしたと云うその、ごちそうさまがです、何を食べても有り難く味わえるという体のおかげを頂いておるという事にです、まず満空からの感謝の心を持ってのごちそうさまでなければいけないという事です。ですから、この健康の体でどう応えるか
という事になるのです。信心というのは・・・いわゆる神恩報謝・・・いわゆる
捨身、身を捨てる、次には我情も捨て我欲も捨て自分の思いを捨て、自分の我欲を捨てる。例えば、高山さんの今日という日がどような幕開けになるやら分からんのですから、自分の思いというのは一応そこで捨てとかにゃいかんのです。そして後ろで奏でて下さる天地自然のリズムに合わせて神様任せの、いわば波多野さんの例をとりましたが、例えば人間ですからちょっとした不行き届きはあります。ですからそこには、今日は私の心がけが悪かったと云うて詫びる。詫びるところには、もうそこに、神様がわざわざあつらえて下さるように、田主丸まで行きますが乗りなされんですかといったような、素晴らしいタイミングがそこに生まれてくる。その乗らせてもろうた車には、私がこの車に乗ってあげなければならない程しの使命がある。信心の無いその方に三十日の大祓いの事をお話をさせて頂いたり、その自動車のナンバーを聞いて、私がこの車の事の為に祈らせて頂けるというような御用がある。田主丸に着いたら乗らなければならないバスが待っておるようにして、そこに停車しておる。おかげで時間に合楽に着かせて頂いたといったようなね、素晴らしさが生活の中に出てこなければいけないと思う。
    それにはね、だから身を捨ててとか、我情我欲をすてるといったような稽古も、やはりなされなければなりませんけれども、せめて願いにかかる前にはまず
三度笠位は捨ててからの願いでなければならない。雨がっぱを着ておるなら脱がなければ自由がきかん。それはどういう事かと云うと、私は改まって願うという事だと思う。捨てて願うという事は、そういう事なんだ。改まって願う。改まって願うという事はです、自分の心の中にある、例えば切り捨てなければならないものがありましょうが。こんな根性の悪い人、こんな汚い心、様々にありましょう。我情もありましょう、我欲もありましょうけれども願うからにはです、やはり必死にならなければなりません。一心にいわば、神様との対決に於いてです、やはり真剣勝負で斬り合う時に、まず自分の持っておる邪魔なものを捨てるように、自分の心の中にある、おかげを頂く為に邪魔になるもの、こういう心ではおかげが頂きにくいというもの、そういうものを切って捨てるという私は態度で、御神前に向かわなければならない、お取次を頂かなければならないと思うのです。
しかもね、その上に何とも云えん、ひとつのリズムが出てくるような生活でありたい。そこにはです、それこそ目の小さいわら工芸品を編む、いわばねこだを編むように、目ごも編んでいけれる、いわばそれが出来上がっていく楽しみ、出来上がっていく喜び、しかもそれが目ごもうだけではない、大きな正しい願いの元
にそれがなされていく。最近云われております、天地の大恩を悟り神の大恩を分からしてもろうて、その天地の大恩に報い奉る信心生活、本当に何を頂いても美味しゅう頂いておる事は何という有り難い事であろうか、そんならこの健康な体をどう行使するか、どう使うか、同じ使うなら小さい事よりも大きい事に使う。
同じ使うなら神様に喜んでもらえれる事に使う、その焦点が大事なのだ。その焦点を間違えちゃならない、そこに例えば神恩を悟り、神恩に報い奉る、神恩報謝の生活。そこに命がかけられる。そこに一心と定めた信心がなされていく、そこに生きがいを感じさせてもらえれるおかげ、有り難いだけではない、楽しいひとつのリズムにのった生き方、皆さん本当にそうでなからないけませんよ。
  昨日、私、十二時に下がりましてテレビを見よったら昔の歌手で庄司 太郎というのがおりましたでしょう。もうあの人は七十二才になるそうです。あの人が昔懐かしいメロディーですねえ、赤城の子守唄なんかを歌うのです。私はそれを聞かせてもらいよって涙がこぼれた。それはね、歌一筋にね、自分が命をかけて打ち込んでおられるその姿は尊い。けれどもね、何というても、もうお年なのだ。
自分の持ち歌を若い歌手が歌った方がよっぽどいいのです。そして私は思うた。
同じ例えば命をかけるならば、生きがいを感じる程しの仕事ならば、私はこの事に生きがいを感じるという、その焦点が間違いのないものでなければ駄目だ。例えばこれが歌舞伎役者だったらどうでしょう。八十になってでも舞台にもし出れるとするなら、それはもう大変な芸としてみんなが尊びます。それは、それだけのやはり演技力というものがつくからなんです。例えば流行歌なんかだったら素人でも歌える。いわゆる芸術性に乏しい訳なんです。ですからそこにね、いわゆる歌舞伎役者と流行歌手の違いがある、一生かけるならば本当にそれが芸術性に富んだものに、かけられなければならない。
  ある人は、信仰は芸術なりと云うた人があります。なる程、そうも感じられます。けれどもなる程、芸術以上の芸術ですよ。有り難いというものを追求していく、云うならば限りなく美しゅうならせて頂こうという美の追求ですから、芸術とは。ですから、限りない自分の心が美しゅうなっていく事が喜び楽しみで、そこから様々なですね、いわば変わったおかげの創造と申しますか、芸術品が生まれてくるように、様々な変わったおかげがそこから生まれてくるのですから、確かに芸術以上の芸術です。いわゆる芸術家が美の追求をするように、私共は真に有り難いという、その有り難いを追求していく、限りなく美しゅうならせて頂くその自分の心に自分ながら見とれれる程しの心を求めての、信心なんですからね。
ですから、同じ例えばそこに命をかけると云うか、自分の生きがいといったようなものを見い出すならば、信仰にその生きがいを見い出し、感じれれるような信心にならせて頂いたら有り難い。そういう大きい願いを持つ事が、私は、ねこだを編み上げるひとつの計画を立てるようなものではなかろうかと思います。しかもそれは、大きい願いだからざっとという訳にはいきません。やはりねこだを編み上げていくように、目ごもういかにゃいけません。そこからね、私は今日、この三十一節に頂く、「木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を云う心持ち」
がひとつのリズムになって出てくるような、そしていてです、肝心要の有り難いおかげを受けておる事にも心から感謝が捧げられるような、日々、そういう信心生活を営んでいきたい。しかも、有り難く楽しゅういけれる為に、ひとつ天地自然が奏でるリズムというものを、心の耳に聞き取らせて頂けれるまでにおかげを頂いて、そのリズムに乗った日常生活、いわゆる信心生活をさせて頂きたいと思うですね。どうぞ。